恐怖症の起こりとその変遷(簡単に初期〜中期)
これまでの道のり
嘔吐に対して恐怖症があったのはもちろん初めからではありません。それでも今までの人生において、ところどころ嘔吐に対する恐怖を「自覚」するための時限爆弾みたいなものが刻一刻と進んでいたと思います。
現在振り返ることのできる部分で、どのような道のりがあったのかを振り返っていきます。
どの時のシチュエーションがどのように現在に繋がって、どう影響を及ぼしているのか、自分の意識を探ることで見えてきたものを残していきます。
記事の構成は大まかに、「症状初期」「症状中期」「症状後期」で構成されます。
余談ではありますが、このように過去のトラウマなどに対してアウトプットする作業は非常に精神的に良いと見たことがあります。
なかなか自分のトラウマや恐怖心に向き合うのは困難で勇気のいることだと思いますが、こうした自分の備忘録が誰かが自分と向き合う勇気になれば幸いです。
3歳か4歳の時に「恐怖」と出会う
幼かった頃の記憶なので、正確にいつだったのかは正直覚えていません。
しかし、どんなことがあり、どんな感情だったのかは大まかに思い出すことができます。
その頃、私は休日に家族と時間を過ごしていました。
天気は確か晴れ、テレビを何気なく見ていた私はマクドナルドの「ハッピーセット」が無性に欲しくなりました(そういう経験は皆さんあるでしょう)。
当然、幼い頃ですから親に頼んでマクドナルドにいくことに。
またそのついでに知り合いの家に寄るというようなルートを辿ったと記憶しています。
何も心配していたり、そういったネガティブな感情は当時はありませんでした。
しかしこの日が、恐怖との戦いにおける火蓋が落とされた日だと思います。
知り合いの家につき、おもちゃか何かで遊んでいた私ですが、マクドナルドが幼い体にとって悪影響だったのか(否定はしていません)、原因は定かではないしなんでも良いのですが、嘔吐をしました。
ただし、この時は周りの大人が優しく介抱してくれたり、正直そこまで深刻な辛さはありませんでした。
しかし家に車で到着した瞬間、車の中でも嘔吐してしまったのです。
1日1回なら良かったのかもしれませんが、複数回事象が起きたことで、体が「吐いている状態は辛い」「周りの人へ迷惑をかけてしまう」という思いが無意識に生じていきました。
これが初めての恐怖との出会いとなり、後々大爆発を起こすタイマーのようなものになるのです。
8歳頃に恐怖を自覚する
上記の幼少期では、恐怖が生じていたものの、その恐怖自体を認識することができていませんでした。
だから自分の感情がどんな状態で、どういう状態を保とうとしていたのか知覚できていない状態です。
しかし8歳の社会科見学時に恐怖が無意識から意識化へ少しずつ移動し始めます。
その時のエピソードはこうです。
小学生の時、社会科見学などでバスに乗り工場や施設を見学するという授業がありました。
日本の小学校で教育を受けたりした方は馴染み深い経験でしょう。
その移動の際、隣の席の子がたまたま吐いてしまったのです。
それを見てしまった自分は、上記の幼少期に経験した辛い経験が一気に体の神経を突き抜ける感覚を覚えます。
結果として自分も吐いてしまい、さらに自分の「辛い経験」に対する追体験をしてしまったわけです。
もちろん周りの人や同級生は優しく介抱してくれたし、悪口を言われたりなどもなかったので、強いネガティブな拍車はかからずに済みました(当時の同級生に感謝を)。
しかし自分が思ったことは「周りにまた迷惑をかけてしまった」という恥の感情です。
恥は簡単に恐怖に変わります。きっと誰しも一度は持つ感情と言えるでしょう。
例えば「自分の容姿に自信がない=人と接するのが怖い」であったり、「周りからバカにされたくない=なかなか行動できない」などが典型例です。
こうした恥の感情がどんどん積み重なるにつれ、より大きな恐怖に変わり、ついには自分の体を支配してしまったのです。
ここからは支配に至るまでの道のりを振り返っていきます。
恐怖の支配の始まり(小学生後半〜高校生後期)
小学生の頃の恐怖は今思えばまだ可愛いものでした。
なぜなら、隣の人(近距離の人)が自分の考える恐怖状態にならないと自分もその恐怖状態にならない、つまり周りの影響がまだ受けづらかったと言えるからです。
しかし、当時はもちろんそんなことは考えていませんから、ただただ嘔吐に対する「恐怖」だけが残っていました。
具体的にどんな状況だったか、正直理解の範疇を超えて面白いとさえ思われるエピソードです。
まず初期の頃は、街中で体調の悪そうな人を無意識で探す癖がつきました。
簡単な理由です。上記の体験を発端として、夜の繁華街で吐く人、電車のホームなどで体調不良になる人、世の中には吐き気を感じている状況の人が探せば割といます。
私は当時の体験をふまえ、「他人が辛い経験をしているのを見るのも知覚するのも避けたい」という恐怖に支配されていました。これは嘔吐そのものよりも「自分そのものに影響を与えかねない他人」を恐れていたと言えます。
その結果、体調不良の人をいち早く探し出し、その場からできる限り距離を置くことで自分の精神状態を安定させようと試みたわけです。
特に小学生の時などは自分の体調が急に変わってしまう人などもいますから、多少ピリピリした精神状態で過ごしていました。
それが中学、高校と進むにつれて電車の活用や繁華街への行き来(カラオケとか)をするようになり、私の嘔吐に対する「危険警戒度」は上がるばかりです。
当然自分自身ではそんなこと気づいていないわけですが、無意識下でこのストレスやバグとも呼ばれるべき感情はすくすくと育っていきます。
さあ、あとはその感情が体に影響を与えるまで、発芽するまでという状態です。
感情は常に体の変化や自分自身の行動と紐づいています。つまり一定の感情レベルを超えてしまうと、体の状態が急激に変化したり、訳のわからない考えをしてしまうということです。
この感情の種子が発芽するとどうなるのか、下記に記します。
恐怖症の発現
初めて恐怖症が発現したのは、19歳の頃です。
当時自分は大学進学のために浪人をしていました。
そこそこに勉学に励み、それなりに怠惰な時間を過ごしていました。
しかし今でも覚えているのは浪人時代に通った塾の費用の高さです。
当時はそんなこと思ってもいないつもりでしたが、どこか無意識で「これで落ちたらどうしよう」や「大学に進学できなければ、人生がうまく進まない」などのプレッシャーを感じていたのでしょう。
私立大学の受験に向かう電車で、たまたま私は電車酔いをしてしまいました。
朝のラッシュの時間で、しかも受験日というプレッシャーのおまけ付きです。
これまで自分が恐怖していた状態に、まさに自分がなってしまったという訳です。
途中で苦しくなり、降車をしてすぐに酔いは治りましたが、ここからが恐怖の支配の始まりです。
次の電車に乗る瞬間から「また気持ち悪くなって下車したらどうしよう」や「受験に遅刻する。まずい。」などの感情が頭を支配してそれ以外のことが考えられません。
全身からは冷や汗が吹き出し、(当時は分別することができなかった)吐き気が喉元を襲うのです。
その日はなんとか受験会場につき、受験をすることができました。
しかし、受験開始時間から40分の遅れ、あと10分遅れていれば受験自体できないという瀬戸際まで追い込まれた経験です。
そこから数日後、また別の大学を受験しに朝の電車に乗りました。
ここから奇妙なことが起こり始めます。
体調は悪くもないし、これまで通りの電車なのに、乗った瞬間にパニックになるのです。
吐き気に襲われ、冷や汗が吹き出して脳みそが痺れるような感覚に襲われます。
今では笑いながら話せますが、その時は乗った瞬間の恐怖のせいで、3回連続で電車になった瞬間にまた降りるということを繰り返しました。
結局大学に行くことはできず、受験はできない、しかもそのことを(お金の工面などもあったから)親に報告もできないのでトラウマとして抱えることになるのです。
自分に起きたことに対する事態の把握
大学を受験できなかったなんて言えませんでしたが、やはりそこは親、わかるものなのでしょう。
様子が変だったのか何だったのか分かりませんが、受験ができなかったことは明るみに出ることに。
この時の反応は意外でしたが、親は怒ることもなく塾の先生に相談するという手段に出ました。
この時国語を担当していた先生が、たまたま新宿のメンタルクリニックに知り合いがいるとのことで紹介状をくれました。
そして後日病院へ行くことに。正直あんまり覚えておらず、何かの薬をもらったような気がします(多分抗不安薬と胃腸薬とかその辺)。
薬が効いたのか、はたまた受験に向かう時以外は発症しない時期だったのか、要因はわかりませんが、多少マシになったと記憶しています。
ちなみに本命の大学受験の際は、始発の電車で向かいました。
結果はわかる通り、精神状態がボロボロになりかけている時だったので落ちることになりました。
この経験を経て、強く私は「嘔吐に対して恐怖を抱えている」ということを自覚することになるのです。
しかしそんな体の変化に対して対抗できる手段も知らないし、電車に乗っている時以外は特に気にもならないから、と放置をしていました。
この時はまだ恐怖症の症状が特定の状況で、しかもものすごい短時間しか現れなかったのです。しかしこの後の大学進学をきっかけに症状は悪化することになっていきます。
恐怖の定住化
大学へ浪人しながらも進み、大学1年時は恐怖症状が発症することもなく、そこそこに大学生活を謳歌していました。
大学2年時にはいわゆる大学ゼミナールに所属することになっていたのですが、自分の興味のあったゼミに入ることもでき、教授と仲良くなったので、飲みに行くことに。
大学2年ですと早生まれの自分は20歳でしたから、ようやくお酒を飲み始めたくらいです。
教授はビールが好きで、しかもお酒が強い人でした。
強要するなどは全くありませんでしたが、そこそこお酒が飲めた自分の体質も変な方向に働き、人生で初めてベロベロになるまで酔うという経験をします。
そこからの帰宅途中に完全に恐怖が無意識下から意識下に完全にインストールされてしまう出来事が起こります。
飲みすぎたので、当然吐き気がします。当人はそれ以上に感覚が麻痺しているから、キツさは感じていないものの、時間が少し経つと辛くなってきます。
帰りの電車を下車後、駅で吐いてしまうことに。
この時過去に自分が避けていた状況を自分が作り出していることが受け入れられなかったのか、何にせよかなりの肉体的かつ精神的な苦しみが一気に襲ってきました。
そしてこの事件後、翌日から電車に乗る際に受験時に一時的に現れていた恐怖症状が連続して起こるようになります。
電車に乗るとき症状がで始めることから端を発し、次いでタクシーなどでも起こるようになりました。
当時の分析では、電車内などのように目的地に到着するまで閉じ込められるような環境に陥ると発症すると考えていました。もちろんこれは表面的でしたが正しい考察でした。
さて電車で移動(したくても)できない状況で大学生活が続くとどうなるでしょうか。
それは簡単で、大学に行かなくなるのです。つまり留年の道に進み始め、当初自分が大学に進学して目指していた目標は実感できるほど急速に遠ざかっていくのを感じたものです。
都内の生活で、電車が主な移動手段でしたから、電車に乗らないとなると生活範囲が家から近くのスーパー程度になってしまいます。
引きこもり生活のようなものになり、しかも精神状態では上記のように自分の考えていた道と大きく外れているし、その道に戻れる見込みも立たないという状況でしたので、鬱のような状態にも変化していきます。
大学2年生の中期頃からこのような状態に陥り、誰にも相談できないまま1ヶ月程度が経ちます。
しかしなんとか症状を良くしたい、現状を良くしたいという精神の綱みたいなものは切れていなかったので、ネットで自分の症状が何でどうすれば良いのかひたすら検索していました。
当時の結論として、確実に精神的なものであるからメンタルクリニックにまずは診察しに行ってみよう、というものです。
向精神薬との出会い、少しだけの付き合い
自宅からギリギリ徒歩で行ける街中のクリニックに赴き、簡単にいうとパニック障害と診断されました。
そこでもらった薬は確か「セルトラリン」というSSRIと呼ばれる薬で、簡単にいうと抗うつ剤です。
容量は正確に忘れましたが、一番少ないものを処方してもらい、それを飲めば電車に乗る時などは大丈夫だと言われました。
それを信じ、1週間ほど飲み続けました。確かに吐き気に対する恐怖感みたいなものはなくなりはしないものの、薄れていくような感覚があります。
今まで恐怖感に対して蓋をきっちり閉めていたものが、ちょっとへたれてほんの少し気が楽になるような感覚です。
ただし、当時は気づいていなかった負の側面が確かに自分にはありました。
それは、恐怖は薄れている感じがするものの、常に無気力状態なようなものを感じるということです。
恐怖感が薄れても無気力感があるので、大学に行きたいとも思わず、自分の目標も何かどうでも良くなるような、でもそれではいけないと遮る少しだけの意識と闘ったりなど、そこそこに忙しい精神状態でした。
しかも今みたいに何を考えているのかやどう思っているのかを言語化することも当時はできなかったので、誰にも相談することができず、何を思ったか勝手に一人で断薬をしました(※お勧めしません。薬にかかっている人は必ず医師と相談することにしましょう)。
少量のSSRIでも相当の効果なのか、それとも自分の感覚が鋭敏なのかは分かりませんが、断薬してから1ヶ月〜2ヶ月くらいはなかなかの離脱症状を経験したのを覚えています。
ちなみにセルトラリンを服用していた期間は3ヶ月〜4ヶ月程度だったと思います。
自分の経験した離脱症状は、無気力感、稀に起こる動悸、今まで誤魔化していた恐怖との対峙、シャンビリ感です。
シャンビリ感とは感覚的なもので表現が難しいですが、脳に電流というか痺れのようなものを感じ、何とも言えない不快感と恐怖感が起こる症状です。例えるなら寝てる時の金縛りが脳に起こるような感じです。
この離脱症状は今になって思えば、断薬するための通過儀礼として耐えて良かったと思えますが、当時の心境はかなりハードです。
離脱症状に加えてもちろん電車などは乗れないわけなので、薬という最後の安心材料がなくなったわけです。
しかし何とか自分の意識(精神)を整えて乗り越えようと無意識で思っていたんでしょう。
結果的にこの後、症状はよくなったり悪くなったりを繰り返しながらも、徐々にマシになっていくことに。
それはまた次回の記事で。