恐怖症の起こりとその変遷(簡単に中期とまとめ)
本記事では前回の記事に続き、自身の経験した嘔吐恐怖症の中期に経験した精神状態やそこから得られた考えについて、簡単に記していきます。
初期〜中期にかけては徐々に症状が発現してくるようなフェーズでしたが、中期〜後期にかけて、その症状は様々な形で体に変化として現れていきました。
ある意味で、中期のこの時期が一番肉体的な苦しみや精神的な苦しみを強く体験する期間だったので、それ相応の辛さや憤りを感じたことを覚えています。
しかし症状が緩和していく後期以降では、もはやこの恐怖症が自己を見つめ直す良いきっかけと思えるようになっていきました。
そこまでどのような道のりがあったのか、書いていきます。
薬をやめた後の道のり
前回の記事で書いた通り、特定の状況下に置かれると吐き気に襲われたり、パニック症状らしき症状が出ることから、メンタルクリニックに行き、SSRI(抗うつ剤)を処方してもらいました。
しかし、その薬に対してあまり良い効果を感じなかったのか、数ヶ月で断薬することに。
断薬後、2ヶ月ほど離脱症状に苦しみながらもなんとか生活を続けている状態でした。
この時の自分はとにかく無気力かつ軽度の鬱で、大学にも行かないしバイトもたいしていかず、さらにはクレジットカードで借金を作るという状態にまで至ります。
個人的に、鬱症状と無気力というWコンボは自分の体の蝕みを加速させると思っています。
よく言われることは「もっと早く相談してもよかったのに」や「これからどうすれば良いかについて」でした。
経験のある方ならよくわかるとは思いますが、そういった「行動」自体、する気も起きないしそこに希望を持てないのが無気力な鬱状態です。
とはいえ、なんとか理解してくれようとした周囲の人たちはとっても大事な存在です。当時はなぜ理解しようとしてくれないのかなど、ある種の憤りを感じていたものでしたが、無駄な感情でした。
また、付け加えるとすると、この鬱状態も処方されて飲んでいた薬の副作用なのかもしれません。
正直、考察に意味はありませんが、もし薬(やサプリ)を断薬して苦しんでいる方がいたら、それは副作用という気持ちを抱き、心に余裕を作ることが薬を断つ一つのヒントになるかもしれません。
当時の自分はそんなメンタルコントロールなんてしていませんから、次に起こす行動は怒りを起こさないための、周囲との隔絶です。
家に篭り、何の気力もなくぼーっとテレビを見ながら自分の将来を悲観し、寝る前には自分が嫌になり人生を投げ出したくなる感情を必死で抑えたものです。
しかしここで救いの手が偶然なのか必然なのか、あらわれました。
当時少ないながらもバイトしていた先で出会った女性と付き合ったことが、良い方向へ向かう一つの分かれ道でした。そしてこれが断薬期間を乗り越えられる一つの大きな要因でした。
人生好転への転機
「恋愛は人を盲目にさせる」というような名言はいくつもありますが、これは真理だと考えています。
実際に恋愛中の人間脳は考えることをストップすることが多く、つまりネガティブな感情に支配されていた自分としては非常に望ましい恋愛の「副作用」を受けることになったのです。
恋愛中の脳の状態などについては、また別カテゴリの記事で書くとして、断薬期間中の自分としてはずっと殻に閉じこもっていた中に、一つだけ希望みたいなものを見つけることが幸運にもできました。
当時の年齢が21歳や22歳頃というのもあり、恋愛に心からまだ取り組める精神状態。
もちろん薬のことについては時期を見て、割と早い段階で話していました。
そこにも一定の理解を示してくれ、電車での移動中に相手が心身を気遣ってくれたことを思い出します。
そしてこれは後々、当時の彼女だけでなく周囲の人も理解を示してくれるようになりました。
「隣に彼女がいるから、何か起きても大丈夫」
「他人に悪く思われても、それでも今は横にいてくれる人がいるから大丈夫」
こんなことを自分に言い聞かせながら過ごした日々でした。
こうした彼女という一つの心の拠り所があったおかげで、症状は良くなりはしなかったものの、鬱状態になったりなどの悪い状態になることもありませんでした。むしろ症状は変わらないものの、精神状態は良くなっていくという流れに。
愛の感情とは偉大で、彼女とのデートのためにバイトを頑張ったり、プレゼントをあげたいなど、色んな理由で「行動」ができるようになっていきました。
この行動こそ、後の人生に大きく影響を与えるものであったと断言できますし、したがってその時々の感情や精神状態がいかに大事なのか、身をもって説明することができます。
ともかくとして、大学進学後に顕在意識下に根付いてしまった恐怖症に対して、一つの心の拠り所があることで勇気や希望みたいなものを見つけることができました。
これが間違いなく、青年期の自分の完璧な人生の分かれ道です。
心の拠り所を見つける大切さ、自分を曝け出せる勇気
ここまでの内容を踏まえて、少しだけ個人的な考えをまとめてみたいと思います。
人にはそれぞれ辛い状況が必ず訪れます。人によっては「鋼のメンタル」などと言われ、特に気にも留めず、ガンガン進めるような人もいれば、繊細で二度と同じミスはしないように、同じことは起こらないようになど考えて過去の失敗を振り返り続ける人もいます。
では辛い状況をいち早く抜け出す人と、そうではない人の違いは何でしょうか。
この差を埋めることができれば、辛い状況が来てもそれを早く抜け出したり、気にし過ぎないで済むのではないでしょうか。
個人的に思う、辛い状況を受け止めたり抜け出したりするうえで大事な要素は主に2つだと考えています。
- 心の拠り所があるか(信心を持っているか)
- 自分を好きでいられるか
結局、良く啓発本などで紹介されているような要素に落ち着くわけですね。
文字の通り受け取っても、もはやあまり重みがないような言葉とさえ思われているような要素です。
それは上記2つの要素がまだ抽象的だからです。ここから少しだけ具体的に掘り下げていきます。
心の拠り所の大切さ
「心の拠り所」は様々な物や形として表現されることがあります。
スポーツ選手などは「優勝すること」などの信念が心の拠り所になっているかもしれませんし、サラリーマンは「昇進・昇給すること」や「家族を養いたい」などが心の拠り所になっているかもしれません。
熱心に信仰を持つ人はその宗教そのものが心の拠り所になっているかもしれませんし、よく映画で見るお守りや形見といった物理的なものも心の拠り所となり得ます。
このように本当に心の拠り所の形は様々です。きっと各人が一度は何かに心を寄せたことがあるのではないでしょうか。
ではなぜ、この拠り所が大切なのかというと、それは各人が自分の心の拠り所に対して「幸福」を感じているからに他なりません。
自分の心の拠り所になっているものに対し、なぜそこに心を寄せているのか考えると最終的にそこに幸福を感じるからという結論になります。
むしろ、幸福を感じないものに対して心を寄せることはできません。
ぜひ一度、自分に対して「なぜそれを心の拠り所にしているのか」を問うてみてください。きっとそこに幸福を感じることができるからでしょう。
ここまでくれば、人生の辛い状況において心の拠り所がなぜ大切なのか、はっきりと見えてくるはずです。心の拠り所があれば、それについて考えたり触れたりするだけで、一時的にせよ幸福を感じることができるのです。
横道にそれますが、中にはその幸福に取り憑かれるあまり、逆に不幸になってしまう人もいるので、この点は大いに注意したいポイント。
話を戻すと、人生で辛い状況になって悲観的な感情が芽生えたとしても、心の拠り所があることで幸福感を得ることができ、「また頑張ろう」や「ここまで良くやってきた」など自分を肯定的に捉えることが幾分か簡単になるのです。
「ポジティブに生きた方が良い」なんて月並みな言葉では多くの人を動かすことが難しいでしょう。
しかしそれが真理であり、ポジティブな感情を育むのに最も大事な活力剤は心の拠り所であると私は確信しています。
自分にとっての心の拠り所は何で、なぜそれが心の拠り所なのか、またなぜそこに「安心感」や「幸福感」を感じるのか考えてみてください。
人間の脳は本当に良くできていて、自分に対して質問をするだけでその答えを導き出してくれるのです。
あなたがこれまでの人生で得ることのできた心の拠り所、もっというと幸福を見つけることができたら、することは一つです。
「勝ち得たものを守れ。しかもそれに執着することなく。」ーブッダ
自己こそ己の主である
人生の辛い状況において重要と考える2つ目の要素は、「自己愛」です。
自分を認めることこそが人生を良くするなんてことは、苦しい経験をした人のほとんどが直感的に感じとっていることです。
例えば大きなプレッシャーのかかる大舞台に立った時に顕著に現れます。
その状況は人によっては大学入試だったりもするし、演劇やその他色々なシチュエーションが挙げられるでしょう。
そのとき、多くの人が「これまでやってきた努力を信じるしかない」や「自分ならできる」と言い聞かせた経験があるのではないでしょうか。
これはある種、(過去の出来事を乗り越えた)自分を好きになって信じるための行動です。
意識的にせよ無意識的にせよ、これは自己愛を得るための方法と言えます。
そしてなぜこれが重要なのか、その理由はほとんどの人が言葉で表せなくても直感的にわかっていることです。
自己愛が重要な理由、それは「想いは結果となって現れるから」です。
野球で自分の打席が回ってきた際に「打てなかったらどうしよう」や「失敗して怒られたくない、恥をかきたくない」などの思念を持ってバッターボックスに立っても思うような結果は得づらいでしょう。
なぜならすでに「自分は良い結果を出せないこと」を前提にしてしまっているからです。悪い結果を出す自分に対して自分を好きになれなどという、かなり高度なことを考えなしで行なってしまっているのです。
前提条件から自分を好きになれない状況で考え事を続けても、よっぽど大きな外部要因がない限り、そのマイナスの思念は払拭できません。
本章の自分の恋愛経験は、よっぽど大きな外部要因でした。しかし、大半の人がずっとネガティブな感情が続いてしまう負のスパイラルに陥ってしまいます。
では逆の状態だとどうでしょうか。これまで地道に努力を続け、誰に評価されるわけでもないけど自分の中では誇りに思えることが一つでもあるとどうでしょうか。
きっといざというときになってそれは自信に変わると思います。
「自分はできる気がする」「なんとかなるだろう」
こうしたポジティブな前提条件があると、今度はスルスルと自分を認めたり好きになっていきやすくなります。
だから人生の苦しい局面に立たされたとき、何か自分を好きになれるこれまでの行いがあれば、結果は良い方向に行くでしょう。
「自分には自信を持てる要素や誇りに思えることがない…」
このように考えてしまう人が現代社会では多いように思います。自分も間違いなくそのように考えていました。他人と比較して秀でた部分こそが自分の誇りであると。
きっと周りの多くの人に、これまで努力してきていないなどの評価を受けたり、自分の思うような結果がなかなか出せなかったと思うからでしょう。
気持ちは非常にわかります。
しかし極端ではありますが、振り切って考えると「これまでなんだかんだありながらも生き延びてきた」という生きてきたということ自体が誇りになります。
自分は借金をしたり、体が悪くなるまでお酒を飲んだり、そこまでひどくは聞こえないかもしれませんが、ネガティブな感情を育むのに十分な経験をしました。
しかしそれでも今は生きていますし、命の危険を感じるような状況でもありません。家にも住んでるし、ご飯も困ることはありません。
今の自分にとって、もはやこの状態でさえ喜びになります。というか幸福を突き詰めるとこの状態に辿り着きますし、通過します。
何か特別なものを見つけたり身につけたりする必要はないと思います。
自分のことを好きになれる要素・誇りを正確に知っているのは自分だけです。これは他人に評価されるものでもないし、大声で話すようなことでもないでしょう。そっと心にしまっておけば良いのです。
そうして少しずつ自分を好きになれる側面を見つけ、ついにはそれが上記の「心の拠り所」として昇華される日がきっときます。
そんな状態になった後に、気づくでしょう。「幸せだ」と。
自分のことを知っているのは自分だけですし、自分を100%で愛してあげられるのも自分だけです。だから自分の想いはそのまま形となって現れます。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したりおこなったりするならば、苦しみはその人につき従う。
車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。」ーブッダ
簡単なまとめのつもりでしたが、思ったよりも書いてしまいました。
病の続きについては次回の記事で記していこうと思います。